2022年2月4日に、「コロナ禍でも、世界はひとつになれないのか?」のタイトルで書き込みをさせて頂きました。
書き込んだ時はまだ、「Z」の文字を乱暴にマーキングした戦車が、ウクライナを取り囲んでいる状況でした。演習と称して。
今になっても、「ああやっぱり侵攻・・・。しかも終わりは見えない。」
このことから、ずっと続きは書けずにいました。
想えば人は、目的のためにどこまで純粋でいられれるのか?
すべてことには目的があって、目指す地点・ゴールがあって、そこへ向かうはずであり、目的なしでは、その過程の選択さえできなくなってしまいます。
すべての人が、目的の選択に、その目的の過程の選択を、平和のために使うべきだと思います。
仕事でも、恋愛でも、友情でも、人間関係でも・・・すべてです。
許されざる例外として、戦争があります。
ですがこれは、戦争をおこすより、侵攻を始める前より、終わらすこと、または始めないこと、これを前提で考えねばならないと結べます。毎日の報道で愚かな映像が映し出されています。始めてからではもう遅いのですから。
『目的のための選択』
これは、平和のため、人様のため、相手に喜ばれるためにのみ、許される選択なのです。なぜなら、あえて戻りますが、目的は、平和のためであり、人様のためであり、相手に喜ばれるための目的なのです。
曲は、逆に戦火に身を投じる人間の歌です。
それでもこの曲の歌詞は、『目的のための選択』が人間らしく歌われています。単なる勇ましい軍歌ではないのです。いわば悲壮感でいっぱいなのです。もっと申し上げれば、戦争へのアンチテーゼ。
❝応答セヨ、応答セヨ、輝ける未来ヨ❞
これは歌詞のなかで、自身の目的が不本意なのだとすぐに分かります。(早く終わらせてしまいたいという苦悩が、本音として聞こえてきます。)
ここでの『目的のための選択』は、「憎しみではなく、創造的であり、自分以外の誰かのために、その誰かの笑顔を見るために。」、歌われているとしか思えないのです。
人は、未来の希望無しでは生きて行けないと思います。
私は、3年先のビジョンが見えれば、気張って生きて行けます。
極論を申し上げれば、
明日一日の予定が見えるなら、そしてそれが約束されるなら、十分に生き、その日の終わりに、静かに眠りにつくことが出来ます。
❝応答セヨ、応答セヨ、輝ける未来ヨ❞
それが必ず約束されるなら、明日一日だけだとしても。
TOZO 永井敏