憎悪の感情。
これはたぶん憎悪の感情を持つものだけが忘れず、その逆のものは忘れてしまうものなのかもしれません。
私は前述の後者であることを、最近になって身を以て知らされました。自分の数十年前にそれとなくして来たことを知らされ、或は思い返せばそのとおりであると。
『論理と知識の牙城』
これだけが私の半生の心の支えだったとしても、これは拭い去ることの出来ない事実であると確信しました。
どうしてそう思えるのか?
如何にときが過ぎようとも、如何に近代化が進もうとも、如何に社会規範が浸透しようとも、人は時として合理性よりも、感情を優先するということを、いまさらながら感じる出来事がありました。
つまり人とは、合理性だけでは動かない、生き物であることを悟りました。
なぜこんなことを書くのか?
歴史であります。
とはいえ、私自身の歴史。個人的な経験ではありますが・・・。
謝らなければならない人は、いったい何人いるのだろうか?
それでも、その数十年前のことのために、傷つけた人に会うことはありませんし、会えないでしょう。
しかしそこから逃げることも出来ません。
出来ることは、私が生涯を閉じるときに、心の中で詫びることしかないのです。
それだけです。
TOZO 永井敏